ナイフではなく花束を
作・スモーカー


午前7時30分、いつものように目覚し時計が鳴り、いつものようにそれを片手で止め、深草宗佑は目を覚ます。
6月25日天気は晴れである。
ちょっとベットでぼんやりしていたが、すぐに動いて朝食の準備を始める。いつものようにトーストとコーヒーのみ。
一人暮しを始めて朝はずっとこのメニューである。

深草宗佑は現在18歳。幼いときに母親が死去し、父親の手で育てられた。その父親は半年ほど前から九州に単身赴任している。
単身赴任が決まったとき宗佑に父親は一緒に来るかと誘ったが、宗佑はそれをやんわりと断った。
父親もそれほど固執せず、彼の一人暮しが決まった。
父親がすんなり許したのは息子を信用していたからである。彼は他の子に比べれば手のかからない子供だった。
母親が死んで寂しいだろうに、仕事に忙しくなかなかかまってやれない自分に不平を言ってきたことなどなかった。
非常に年不相応な落ち着きを持った子供だったのである。
宗佑自身自分の性格はわかっており、感情の振れ幅が少ないと感じていた。
他人からは少し真面目過ぎると思われてるし。自分でもそう思っている。昔は改善したいと思っていたが、
いつのまにかそんなことは思わくなっていた。きっと鈍感になったのだろうと、宗佑は自分の中で理由づけする。

8時5分いつものように学生服を着て、学校に向かう。家から20分ほどで学校である。
マンションを出ようとすると、管理人の佐藤光子が声をかけてきた。
「宗佑ちゃん、おはよう。」
「おはようございます。」
彼女は毎朝マンションの前を掃除する。必然的に彼女と宗佑は挨拶を交わすようになった。
「あのね、宗佑ちゃん。あなたの隣の部屋空いてたでしょう。あそこ、人入ることになったから。」
「あ、そうなんですか。」
「うん、そうなの。女の人が二人一緒に住むんですって。姉妹なのよ。仲良くしてあげてね。」
仲良くするというのは具体的に何をすればよいかわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
「あの、それじゃ学校がありますから。」
「はいはい、いってらっしゃい。」彼女はほうきを片手に手を振った。
いい人なんだけど、いい加減子供扱いはやめてほしいなどということを感じながら宗佑は学校に向かった。
越してくる住人のことなど頭の片隅にも置いてなかった。

退屈極まりない授業が終わり、彼は家に帰る。部活には入っていない。大勢でがやがややるのはどうしても好きになれなかった。
本屋で少し、時間を潰し出来合いの惣菜を買って家に着く。家に着いたら夕飯を食べて、
後は本を読むかテレビを見ながら明日の予習でもするかだいたいそのいずれかである。
マンションには引っ越し業者の車が止まっていた。
「そういえば隣に人が来るんだっけ・・・」すっかり忘れていた。でも、まあ問題ないだろう。
光子は仲良くしろと言ったがそれはつまり不快感をお互い持たないように会話ぐらい交わせということだろうと自分流に解釈し、
303号室の自分の部屋に向かう。

隣はほとんど終わってるようだ。そのうち向こうから来るかもしれないし、会ったら挨拶すればいいと思い特に何もしなかった。
服を着替えてから夕飯を食べ、食後本を読みながらくつろいでいるとインターホンが鳴った。
おそらく隣に引っ越してきた住人だろう。
「はい?」壁にかかっている受話器を取る。
「すいません、私今日隣に引っ越してきた者なのですが・・・」
「あ、はい。ちょっと待ってください。」玄関のドアを急いで開ける。
ロングヘアーの色白のほっそりとした女性が立っていた。
「こんばんわ、夜分遅くにすいません。私隣に越してきた一之瀬 京子といいます。これからよろしくお願います。」
「僕は深草 宗佑です。こちらこそお願いします。」あわててこちらも頭を下げた。
「あの・・・お一人で住んでいるんですか?」
「はい、そうですよ。父が単身赴任なので」
「そうですか、お一人だと色々大変ですね。」
「ええ・・・でももう慣れましたから。」
しばらく沈黙が続く。気まずいので宗佑から話しかける。
「あの・・・そちらは一人なんですか?」
「えっ?」
「あ、あの管理人の人が二人越してくると言っていましたから」あわてて付け加える。
「ああそうなんです。妹がいるんですよ。ずいぶん前にコンビニに行くといって出ってたきりで・・・
 本当は二人で挨拶に来るつもりだったんですけど。」
「あ、そうなんですか。全然かまいませんよ。」
話しながら彼女を見ていると、始めて非常に美人であることに気がついた。肌の色は白く全体の雰囲気も上品である。

次に何を言っていいのかわからず会話の接ぎ穂を探していると、
「お姉ちゃん!!」突然声がした。
「カコ!どこいってたの!」京子が少し語気を強くしていった。といっても迫力は全くない。
「ごめんごめん。迷っちゃてさ、コンビに行くのに10分なのに帰りは1時間もかかったよ。」
カコ、といわれた女の子はぺろっと舌を出した。顔を見れば確かに姉妹と言う感じがするが性格は全く違うようだ。
共通項で割るとしたらどちらも美形だということだろう。
「あ、すいません。深草さん。こっちが先ほど話した妹の歌子(うたこ)です。」
「うたこ?」
「はい、私や両親はカコって呼んでいます。」
「ああ、そうなんですか。はじめまして、隣に住んでいる深草 宗佑といいます。よろしくおねがいします。」深草は軽く頭を下げた。
歌子は宗佑をただじっと見つめていた。宗佑は居心地が悪く感じた。その視線は好奇心とは違う何かを感じたからだ。
「カコ、あなたも黙ってないでちゃんとご挨拶なさい。」
「・・・・・はじめまして、一之瀬 歌子です。よろしくお願いします。」
ボーイッシュな恰好をしたカコは妙な沈黙の後、言葉すくなにあいさつした。
「・・・・あのそれじゃあ、もう遅いので。これからよろしくお願いしますね。」
京子が慌てたように言葉を付けたし、二人は部屋に戻っていった。

宗佑はソファに座りながら一之瀬姉妹の事を考えた。
一之瀬 歌子はリアクションは妙だった。もしかしてどこかで面識があったのではないかと考えたが、どうも思い出せない。
しかし、もしあったとしたら向こうから言い出してきそうな話題である。ということは、彼女が一方的に自分のことを知っていて、
何か言い出せない理由があるのではないか?その理由は・・・
と、ここまで考えて思考に行き詰まった。
「まあ、考えてもしかたないよな・・・」
小声でつぶやき、壁に掛けてある時計を見ると10時過ぎていた。
今夜はもう風呂に入って眠ることにしようとおもい、立ちあがった。

彼は布団の中で考え事をしていた。最近はいくら寝ようとしても目がさえて2、3時間はそのままである。
それもこれも園宮 雪のせいだと考えていた。
園宮雪と知り合ったのは父親が単身赴任してすぐの事である。彼は6時半ごろ夕飯の買い物をして、
近道である公園を通って家に帰ろうとした。もうかなり暗くなった公園には宗佑のほかに3人がいた。
さびれた公園には珍しいことである。だが、どうも様子おかしい。二人は男でもう一人は女だった。
どうやら言い争いをしているようだ。宗佑は早く公園を出ようと急いだのだが、そのうち男の一人が女につかみかかった。
女は叫び声を上げながら必死に抵抗する。もう一人の男は手を出さずじっと宗佑を睨んでいた。
けん制しているらしい。宗佑は仕方なしに彼らの方に近づいた。

彼の行動は正義感から来たものではない。ただ、もしこのまま放っておいて女がひどい目に会ったなら後味が悪いのは自分である。
このような情緒を正義感とは言わないだろう。
「なんだ、てめえは!?」女に掴み掛かった方の金髪がこっちに気がついた。
「何があったか知らないけどそのこを離してやれよ。」なんともさえないセリフである。
「ああ!?お前こいつの知り合いか?」
「いや、違うけど。」
「だったら向こうに行ってろ!てめえには関係ねえだろ!!」
宗佑は答えず黙っていた。カッコつけたわけではなく、ただどうしていいか分からなかっただけである。
金髪はそれを無視と受け取ったのか女から乱暴に手を離しこちらに向かってきた。
「てめえふざけるんじゃねえよ!!」いきなり殴りかかってきた。宗佑はあわててそれをかわす。
意外に俊敏な動きに金髪も傍観していた奴も多少驚いたようだった。
彼は昔空手を習っていた。といっても全然強くない。父親が宗佑の消極性を少し心配して無理やり習わせたものだった。
人一倍やって普通にやっと追いついた。それなら人の2倍3倍やって追い越せばいい、
などと周りの大人は言ったが向いてもいない、好きでもないことに対して何故そんなに熱心になれるのか不思議だった。
しかし、結局惰性で小学6年から高校に入学するまで空手を続けたのである。

「てめえ!!」パンチをかわされた金髪はますます逆上する。今度はキックを繰り出すが宗佑は丁寧にそれをさばく。
幸いにも女はもう公園の出口に向かって走っていた。宗佑はそれを見てほっとしてるうちに金髪のパンチが肩にあたる。
痛みにこらえると金髪が眺めてる男にむかって
「おい!あの女行っちまったからよ、こいつぼころうぜ!」と言った。
視線が離れているのを宗佑は見逃さなかった。渾身の力をこめて相手の鳩尾にむかって拳を叩き込む。
「ぐふう!」金髪は体を折りながら妙な声をあげた。下から宗佑を睨む。
「てめえ・・・絶対ぶっ殺してやる。おい三宅!てめえも動けよ!」
三宅という男は宗佑とは反対のほうに走った。
「てめえ!逃げんのか!」
「馬鹿か、見ろ。あの女人連れてきやがった!」
公園の出口を見ると警察官を連れた先ほどの子がいた。それを見た金髪も慌てて立ちあがり走っていった。
宗佑はそれを見送るとふうーと息を吐いた。肩がずきずきと痛む。
女がそっと近づいてきて声を掛けてきた。
「あの・・・お怪我はありませんか?助けていただいてありがとうございます。私、園宮雪といいます。」
それが彼女との出会いだった。

それから二人はよく会話を交わすようになった。積極的なのは雪のほうで電話番号を聞き、毎日のように掛けてきた。
宗佑は雪の外見からは創造できない積極さにに少し辟易としたものの、また多少の羨ましさがあった。
それは自分にはないものだったからだ。

出会ってから約1ヶ月後、彼は公園に呼び出され雪から告白を受けた。
そのようなことをされるのは宗佑にとって初めての経験だった。
雪はその場で答えを迫ったが彼は少し時間が欲しいと言って待ってもらった。
一週間後彼は雪に返事をした。彼の返事を聞くと雪は嬉しさのあまり抱きついてきた。そのままキスをした。
「宗佑さんのうちに行きたいな・・・」抱きつきながら雪がつぶやいた。
その日彼は初めてキスをして、初めてセックスを経験した。何もかもが初めてで宗佑は戸惑ったが意外にも雪がリードを果たした。
性知識は貧弱だが、雪が処女ではないことは雰囲気から察した。
そのことに気づいても宗佑は自分でも不思議なくらい動揺しなかったし、彼女を蔑むようなことも感じなかった。
「初めてじゃなくてごめんね・・・」
行為の最中雪は謝り、涙を浮かべた。宗佑は
「気にしなくていいんだよ。」といって彼女を静かに抱きしめた。
雪は何度も宗佑を求め、宗佑もそれに答えた。彼は自分に問いかける。
「今、僕は幸せなのだろうか?」
答えはイエスに決まっているのに、どこかほんとうに僅かだけど決定的な差が雪との間にあるような気がした。
もっとも、そのときはそれを言葉にすることなど出来ないほどの違和感だった。

雪と付き合い始め一人暮しも順調に滑り出したかにみえた。
付き合い始めてからも雪からの電話は毎日続いた。宗佑は煩わしさを感じながらも楽しくそれに答えることが出来た。
しかし、ある日の事
「宗佑さん、あの人誰?」
「え?あの人って・・・」電話で突然雪が質問してきた。こちらが名乗るよりも早くに。
「とぼけないでよ。ほら、今日商店街で話しかけてきた女の人よ。」
宗佑は記憶をたどってみる。
「あ、わかった。本を買いに行く途中にあった人だね。なんかアンケートの答えてくれって言われたんだけど断ったんだ。
でも、なんかしつこくてさ。」
「それ本当?」
「本当だよ。見てたの?」
「うん・・・・・・・・ねえ宗佑君、その人きれいだった?」
「え?うーん、特に印象に残ってないけど。」
「じゃあさ、私とその人どっちが綺麗?」
「え?・・・そりゃ雪に決まってるよ。なんでそんな事聞くの?」
「ううん・・・別に。それより明日どこかに行かない?」

思えばこれが最初の兆候だったのかもしれない。この一件以来雪の電話の頻度はどんどん増加していった。
電話に出ないと翌日には家にきて何故でないのかと泣き叫ぶ。
他の女性の話しをすると狂ったように怒り出す。
そのくせ会えば必ずセックスをした。ベットにいるときは愛してる、愛してると繰り返す。
外にいるときの情緒不安定が嘘のようだった。雪の寝顔を横目で見ながら宗佑は自問する。
「何故雪と別れないのか?」
彼のプライベートは著しく侵害され、それは彼が一番嫌う事だった。
しかし、時折見せる雪の不安な表情とひとしきり怒った後ごめんね、ごめんねと謝る姿を見ていると
別れようという意思がぐんにゃりと曲がってしまうのだ。
雪が一番恐れているのは自分と別れる事だろうという事を理解したのも足かせのひとつだった。
僕はいつから彼女を好きになっていつから嫌いになったのだろう・・・

しかし、ある日決定的な出来事が起こった。
学校が終わり家に帰る途中、宗佑はクラスメイトの佐々木愛に会った。
彼女とは何故か中学から同じで彼の数少ない異性の友人の一人だった。
「深草君、今帰り?」
「うん、佐々木はどうしたの?こっちじゃないよね?」
「あのね、もう試験近いでしょ、優子のところでノート借りてたの。」
「あ、そうか。後2週間くらいか・・・そろそろ始めないと。」
「深草君頭いいジャン、私なんかと違ってさ。」
「そんなことないよ。」
他愛のない会話、宗佑にとっては新鮮だった。久々の明るい会話だったせいか宗佑は周りをあまり見ていなかった。
気がつくと雪が目の前に立っていた。
まずいことになった・・・宗佑はそう感じたが雪に近づき声を掛けた。しかし雪は返事をしない。睨んでいる。
「おい、雪・・・」
その時宗佑は視線は自分ではなく佐々木に向かってる事に気づいた。まずい、と思った時には
雪は佐々木につかみかかりながら大声でわめく。

「あ、あんたが宗佑君を誘惑したのね!!あんたね、あんたがそうなんでしょ!
最近私をつけてるのもあんたなんでしょ!そ、そ、そんなに別れさせたい?!し、死ね!お前なんかし、死んでしまえ!!」
馬乗りになりカバンで佐々木を殴りつける雪を宗佑は必死の思いで引き離した。
「離せ!離して!!どうして!?宗佑君!?」
佐々木は立ちあがり怯えた目でこちらを見ていた。幸い、目立った外傷はない。彼女は走って逃げ出した。
「待て!待ちなさい!宗佑君離して!あ、あいつが宗佑君を・・・」
「落ち着くんだ!雪、佐々木は何もしてないよ。誤解だよ。」
「嘘よ!どうしてかばうの?!あいつにせいで・・・あいつのせいで・・・」

その後、騒ぎを見た人の通報で警官が駆けつけ宗佑と雪はパトカーで警察署に向かった。
小さい部屋で、歯の出た、会話の端々に嫌味を言わなければ気が済まない飯田という刑事に事情を説明した。
1時間ほどたつと突然ドアが空き貫禄のある男が
「もう、終わりだ。帰ってもらえ。」
「え、でも・・・」飯田が反論する。
「園宮様から連絡があった。」
その言葉を聞くと飯田は急ににこやかな顔になり
「あ、そういうことですからお帰りください。」
「えと、このことは一体・・?」
「えーとですね、大丈夫です。こちらにすべてお任せください。」
宗佑は訳が分からぬままそこを出た。外には雪がいた。
「あ、宗佑君。待ってたんだよ。一緒に帰ろう。」
「雪・・・」何事もなかったかのような雪の態度に宗佑は戸惑った。
「どうしたの?早く帰ろうよ?」
帰る途中雪はしゃべりっぱなしだった。不自然なくらい明るかった。それを見て彼はある決心をした。
「雪」
「何?」
「別れよう。」

それから雪の嫌がらせが始まった。それは宗佑の精神をじわりじわりと追い込んでいった。
あの件は事件にはならなかった。雪の両親はこの市の実力者でどうやら握りつぶしたらしい。
しかし人の口に戸は立てられない。学校でも、おかしな女と付き合ってると男からはからかわれ、女達は宗佑を無視し始めた。
そんなわけで彼は今孤立無援、四面楚歌な状態なのである。
しかし彼は我慢した。もとわといえば自分が悪い、彼女の積極性を勘違いし、自分にない、
憧れているという理由だけで付き合い、別れた。そのつけだ。

珍しく何ともなく2、3日が過ぎた。
宗佑が部屋でくつろいでいるとインターホンが鳴った。
「はい?」
「一之瀬です・・・あのもしよろしければお茶でもご一緒しませんか?」
「あ、わかりました。かまいせんよ。」
一之瀬姉妹の部屋は非常に片付けられていた。というよりも荷物自体が少ない。
「深草さん・・どうぞ。」暖かい紅茶が差し出された。
しばらくはお互い遠慮しあって話していたがしばらくすると
「あの深草さんはカコと知り合いなんですか?」
おそらくその話しをするために今日呼んだのであろうと、宗佑は感じた。
「いえ・・・本当に知らないんですよ。でももしかしたら歌子さんがどこかで僕を見かけたのかもしれませんね。
それであの時びっくりしたのかも。」
「私もそう思ってカコに聞いたんですよ。そしたら、知らない、初対面だと言うんです。何か隠しているような気がするのですが・・・」
「残念ですけど心当たりはありませんね。」

京子とのお茶が終わると宗佑は夕飯の買い物のために自転車を走らせた。
商店街に行くには少し急な坂道を降りたほうが早い。宗佑はいつもそうしていた。
心地よい風を感じながら自転車はスピードを上げる。下りもそろそろ終盤だ。右のブレーキを強く握る。
「?」反応がない。いくら握ってもブレーキがかからない。左も同じだった。足で止めるのは無理だ。
彼は一瞬で判断し自ら自転車を横に滑らす恰好で肩から落ちた。すさまじい激痛がはしる。
彼は止まったが、自転車はそのまま止まらず壁にいやな音を立てて激突。大破した。
その自転車を見ていると確かにクラッチから車輪に伸びる線が切断されていた。
あと少し判断が遅れれば一緒にぶつかったかも知れない。良くて大怪我、車が来ていたら死ぬ可能性も高い。
こんなまねをするのは一人しかいない。

雪だ。いままでは精神的なものが多かったのに業を煮やしたのか、まさかここまでするとは・・・
怒りよりも先に悲しかった。ここまで彼女に恨まれていたなんて。
宗佑は大破した自転車をそのままにして痛む肩をかばいながら夕飯を買いに行った。
翌朝、宗佑は学校の前に病院に行こうと家を出た。昨日は結局夕飯も食べず、家に着くとすぐに電気もつけずに寝たてしまった。
肩は痛んだが起きていると陰隠滅滅としてしまうのでむりやりベットに入った。

朝の空は曇りでどんよりとしている。学校に行くため階段に向かおうとすると隣のドアが開いた。京子と歌子だ。
「おはようございます。」宗佑が挨拶する。
「おはようございます。」京子がしとやかに返事を返す。歌子は姉の後ろでかすかに頭を下げた。
「深草さんはどちらの学校に?」
「ええと、ここから一番近い秋月高校ですよ。」
「あら、そうなんですか。じゃあカコと同じ学校なんですね。」
「京子さんは違うところに通ってるんですか?」
「はい、ここから電車で宇治川高校に通っています。」
「へえ・・・」宇治川といえばこのあたりでは有名な進学校であり、比較的豊かな子が通っている。
確かに京子にはどこかしら気品のようなものが漂ってるような気がする。
「駅に行きますから私はここで・・・それじゃねカコ。」
「うん。」京子は駅に向かい宗佑と歌子は学校に向かう。妙に沈黙が続き、宗佑も何を話そうか迷ってるうちに結局黙り込んだ。
5分ほど葬式のような静けさだったが歌子が恐る恐る話しかけてきた。
「・・・・あのどこか怪我されたんですか?」
「え?どうして?」歌子は黙って宗佑の肘にある擦り傷を指差した。
「ああこれ?ええとね・・・」どこまで話すか考えたが隠すのも不自然だと思い、
「昨日ね夕飯の買い物をしに自転車で買い物に行くとき、ちょっと派手の転んだんだよ。
いや誰かがね、ブレーキに悪戯したらしくてさ、いやー危なかったよ。」と、少しおどけた感じで事情を説明した。
ちょっとは空気がほぐれたかな、と思い歌子の顔を覗いてみる。
歌子は立ち止まっていた。
大きな瞳は宙をさまよい、顔色も悪い。
「どうしたの?気分でも悪い?」宗佑が慌ててたずねる。
「・・・・・・・・・ブレーキが切れてたんですか?」
「え?うん・・・」
「・・・・・・そうですか、良く無事でしたね。」

それきり歌子は黙ってしまった。宗佑は何度か話しかけたがほとんど返事は帰ってこなかった。
そうこうしてるうちに学校に近づき、二人は自然と離れた。下駄箱が違うので彼女はきっとまだ高1なのだろう。
そういえばまだ年齢も聞いていなかった。
「嫌われてんのかな・・・」特に思い当たる事はないが雪との事でも他の友達から聞いたのだろうか?
いつもよりも暗い気持ちで校舎の中に入った。

昼休み、特に話す友達もいないので本を読みながら窓をぼんやり眺めた。
歌子が友達としゃべっていた。転校してから日が浅いとゆうのに、仲がよさそうだ。
笑っている。
瞬間的にかわいい、と感じた。
手でも振りたいと思ったが、彼女の迷惑になると思い我慢した。

修行的な授業が終わり、開放される。
いつも通り一人で商店街をぶらつきながら帰る。本屋に立ち寄ろうとすると歌子がいた。
「歌子ちゃん。」少しなれなれしいと思ったが思いきって声を掛けた。これは宗佑という人格にとって非常に珍しい行動だった。
歌子はかなり驚いたようで手に持っていた本を落としてしまった。宗佑がそれを拾う。英語の参考書のようだ。
「・・・すいません。」歌子が頭を下げる。
「ううん、驚かしちゃったようだね、ごめん。」
少し沈黙。先に宗佑が声を掛ける。
「あ、この参考書いいよね、僕も使ってるよ。」
「あ、私英語が苦手で・・・」
「へえ、なんか意外な感じがする。」
「お姉ちゃんは得意なんですけど・・・」
「宇治川に通ってるんだよね?」
「はい、お姉ちゃんは昔から私なんかと全然違って頭がいいんです。」歌子が恥ずかしそうにうつむいた。
「あそこは名門だもんね・・・それだったら京子さんから勉強教わったりしないの?」
「中学のときはよく教えてもらったんですけど、最近は忙しそうで・・・」
「そうなんだ。」
この時宗佑にある考えが浮かんだ。天才的な思いつきといってもいい(彼の中ではだが)。
問題はどう切り出すかだ。今このあまり好意を持たれてない状況でこの提案は受け入れられるだろうか?おそらく可能性は低い。
しかし今言わなければ機会を失うし、仮にあったとしても言い出せるのか。
彼の頭のCPUはかってないほどすばやく回転していた。
少し深呼吸する。
「・・・あのさ。」
「はい?」
「もし良かったらだけど、英語は割と得意な教科だし、僕が教えようか?」
歌子は目を丸くしている。しまった、やはり早すぎたか、一瞬で自分の出した提案を後悔したがそれを顔には出さずに
「あ、ごめん。変な事言っちゃたね。忘れて。」
歌子は黙っている。つられて宗佑も黙る。彼はすでに断られる覚悟をしていた。まず最初に最悪を想定するのが彼の流儀でもある。
「あの私・・・」
「あ、いいいんだ。気にしないで。」
「本当に苦手なんで、あのよろしければ基本からお願いします。」
宗佑はパソコンがビジー状態になったみたいに一瞬固まってしまった。慌てて持ちなおす。
「あ、うん。僕のほうもこういうの初めてだから色々不手際があると思うけど・・・」
「不手際って・・・なんだかおかしな言葉を使いますね。」
「えっ・・・そうかな。あ、うん。確かに今のは適切じゃない。」
「適切って・・・」
歌子が吹き出す。宗佑に笑顔を向ける。彼の頭の引出しはすでに混乱していて何がなんだかわからない状態になっていたが、
その笑顔が自分に向けられているのが分かってそれだけで幸福な気分になった。
「それじゃ、この参考書は必要ないですね。」歌子が本を元の場所に戻す。
「深草さん、一緒に帰りましょう。」

その日の帰り道は宗佑にとって人生で一番楽しい時間だったといってもよい。宗佑と歌子は週に2回、
水曜日と金曜日に彼女の部屋で勉強をすることに決まった。
その後は歌子が好きな音楽について話した。宗佑はどれも聞いたことは無かったが(音楽自体にあまり興味ない)
ぜひ今度聞いてみようと思った。

15分ほどでマンションにつき、部屋の前で別れた。くつろぐわけではなく夕飯の買い物に行かなくてはならない。
昨日はあんな事があったからその日の分の食べ物だけを適当に買い込み、帰ってしまったのだ。
自転車がないので歩いていく。基本的に無駄な時間が嫌いな宗佑だが(夕食もそのひとつである)
今日は晴れやかな気分で、むしろこんな無駄な時間を慈しむように買い物をした。
いつもの倍の時間を掛けてマンションに戻ると部屋のカギが開いていた。
どうやら浮かれていたせいか失念していたいたようだ。
「参ったね・・・」少し反省しノブを握る。部屋に入って右にトイレがありまっすぐ行くとリビングとキッチンがある。
夕飯の作業行程を考えながらキッチンに向かう。
何かが足に引っかかる。
突然景色が変化する。
反射的に体をひねる。
ねぎ、たまご、肉、ジュース、豆腐、買ったものが床に飛び散る。
「痛つ・・・・」
昨日ぶつけたとこを再び強打したようだ。
目の前に包丁が天を突くようにまっすぐ床に固定されていた。
「・・・・!!」
体をひねらなければ、おそらく包丁は宗佑の喉を貫通していただろう。
深呼吸する。深く、何度も生きてる事を確認するように。
少し冷静になってきた。包丁を床から離す。柄の部分を粘土のようなもので固め垂直に立てるようにしている。
この形は・・・・・・やはり自分がいつも使っているものだ。
引っかかったものを見てみる。
「何だろうこれは・・・?」
糸のようだが引っ張っても切れる様子はない。両端はガムテープで固定されている。
「・・・・・ピアノ線みたいなものかな・・・?」
もっともピアノ線の実物なんて見たこと無いし、これは想像である。
誰がこんな事を・・・・そんな風に考える自分がおかしかった。答えは明白なのに。

「ピンポーン」玄関のインターホンが鳴った。誰だ?まさか雪か?
ちょっと間を置くと再び鳴る。仕方なく受話器を取る。
「はい?」
「一之瀬ですけど。」
「あ、ちょっと待っててください。」あわてて玄関に走り、ドアを開ける。
「あ、京子さん・・・なにか御用ですか?」
かすかに落胆したがそれを表情には出さない
「あの、今すごい音がしたんでちょっと心配になって・・・」
京子が端正な顔を曇らせる。
「少し派手に転んでしまったんです。でも、平気ですよ。」
「そうだったんですか・・・すごい音がして私びっくりして。怪我が無くて良かったです。」
本当は怪我どころの騒ぎではなかったが宗佑はだまっていた。
「あのう・・・深草さん。」
「はい?」
「カコに勉強を教えてくれるそうですね?」
「え、ええ、もし良ければですけど。あの、迷惑だったら・・・」
「いいえ、迷惑なんてとんでもないです。本当は私がやるべきなんですけど。最近少し忙しくて。
深草さんが教えてくれるならそれに越したことはありません。どうぞ、よろしくお願いします。」
京子が深く頭を下げた。むしろ感謝したいのはこっちなので恐縮してしまう。

京子はもう一度礼を言うと自分の部屋に帰っていった。
宗佑も自分の部屋に戻りソファに腰掛ける。
床には先ほどばら撒いた食材が散乱している。あの卵はもうだめだろう。完全につぶれている。
やはり雪なのだろうか?それ意外の可能性は考えられない。だとしたらもう黙っているわけにはいかない。
彼女に会わなければならない。なぜだかそう感じた。
これは冷蔵庫にほったらかしにしている食材を恐る恐る探す作業に似ている(もっとも宗佑は腐らすような事はしなかったが)。
もうどうなっているか分からない。予測不可能。さらにそんな物を口に入れたら病院行きは免れない。
それでも、宗佑は思う。
雪に会わねばならない。たとえどのような結果が待っていても。これは自分が下した選択だから。
そして自分は新しい道に踏み出したのだから。

第1部 終


あとがき
スモーカーです。コメディイがシリアスになり、短編が長編になりと掲示板の通りですが、
予想以上のボリュームになってしまいこのような形になってしまいました。
第一回からお約束を破る形となり陳謝、陳謝の毎日です。残りはおそらく今回以上になりますが
必ずアップします。
期待を裏切らないようがんばりますのでみなさんよろしく。感想くれるとうれしいです。