扉向こうの足音
作・スイカの名産地


 クリアボックスから書類を取り出した不動産屋の男は、落ち付かなげに部屋を見回しながら、最後の確認を取る。

「山下さん。…本当にいいんですか?」

 がらんとした部屋は、新品の壁紙が貼り付けられて、床のフローリングも汚れ一つない。
 窓の外に見える景色は、街を見下ろせる最高のもの。

「勿論ですよ。いい部屋じゃないですか、ここ」

 俺は、部屋に満足して頷きながら、書類を受け取った。
 なにしろ、この部屋の家賃は安かったのだ。
 相場から考えて、半分以下。
 それに、敷金なども安く、予算の半分で十分引っ越しを済ませることが出来る。
 まさに、掘り出し物中の掘り出し物と言える条件である。

「…はぁ」

 曖昧に頷きながら、不動産屋は、もう一度だけ、部屋の中を見回している。
 不意に、階段を上る音が玄関の外から聞こえた。

「ああ、そういえば、外、すぐ階段になってたッスね。ちょっとうるさいかな」

 サインを書きかけていた手を止めて、玄関を見る。
 階段を昇っていく足音は、さらに上の階へと登っていった。

「ま、寝付きはいい方ですし、大丈夫ッスよ」

 ニッコリと不動産屋に笑いかけてから、俺は書類にサインした。

「……………」

 だが、不動産屋に返事はなかった。
 不動産屋の顔は、ひどく固まった目を見開いた表情のまま、玄関の扉を見ていた。
 ただ、じっと。

「(なんだかなぁ…)」

 このさい、何も聞かず書類を書き終え、手の中でまとめる。
 それを手渡すと、不動産屋は慌てふためきながらクリアケースの中へ戻した。

「これで、契約完了ッスね。じゃ、話通り今日からこの部屋使っていいんですか?」

「は、はい。それじゃ、鍵こちらなんで。今日から使って下さって結構です、電気や水道も通されたままになってますんで
……なにかあったら、連絡してください」

 鍵を手渡すと、不動産屋は逃げ出すようにして部屋を出ていく。

「そんな急がなくてもいいのにな〜。………ま、こんな部屋を紹介してくれるくらいだし、よっぽどのやり手さんなのかね」

 階段を駆け下りていく足音を聞きながら、俺は苦笑しつつ窓を開いた。

 涼しげな風が室内に満ちていく。

「……うん、いい部屋じゃん」

 満足げに頷きながら、俺はフローリングに寝転がる。
 大分疲れていたせいか、いつの間にか、俺は眠りに落ちていった。



 玄関の向こうで、階段を上る足音が2度、聞こえた。

「……あと、十一段」

 くぐもった、女の声が聞こえる。


                    *



 大学を退学して、実家を出てこっちに来てからずっと通っていたバイトも辞めた。
 それでも引っ越しに必要なくらいの預金はあったし、しばらくは暮らせる。

 前の部屋にはもう居たくなかったし。
 なにより、今の俺にはこの部屋はとても都合がよかった。

 だから、引っ越して、俺はこの部屋の住人になった。

 しかしまぁ、無職の男の、なんとやることのないことか。

 昼に引っ越し屋が届けにきた荷物は、テレビとラジカセに、後は服をいい加減に詰めただけのクリアボックス。
 後の家具は、ほとんど処分してしまった。
 10分も経たずになけなしの家具は部屋に置かれてしまう。
 実に短い引っ越しだ。

「さて……なんか、他に片付けるモンはないかね〜」

 ゴソゴソと探したクリアボックスの中から出てきた、最新一代前のテレビゲーム機に、我ながら呆れつつも、
思わずプレイしてしまうのは、元ゲーマーのサガというものか。

 パッドを手にとり、スイッチをONにする。
 テレビ画面に映る、ゲーム機のロゴが、やたらと懐かしく思えた。





「ゲェ〜〜ッ、エロシーンは画面光っただけで終了かよ! テキストくらいなんとか移植しろっつーの!」

 格闘ゲームにシューティングを経て、ふと気付くと、俺は出来の悪いパソコンからの移植のエロゲーをプレイしつつ、
無意味に全キャラコンプリートをを目指していた。

「…何ィィ!? 隠しキャラのうえに、さらに隠しキャラがいたのか!? っつーか、隠しャラ多ッ! メインキャラより多いだろコレ!?」

 攻略しても攻略しても新たに出現する隠しキャラクターに思わずエンドレスでプレイを続けつつ、
だんだんいい加減になっていくストーリーを楽しむ。
 そもそも、ゲーム内容を濃くしたいのなら、一人一人のシナリオを練ればいいだろうに、
無闇にキャラクターを増やしてるせいで話の内容が薄い薄い。

「だが、そこがイイんだよなぁ…」

 我ながら不気味な笑いを浮かべつつ、パッドを握りしめて、自分の中に(ダメ)ゲーマーとしての魂が蘇っていくのを、俺は感じていた。

 いつしか、窓の外は赤焼けに染まり、昨日から開けっぱなしの窓から入る風は、肩に染み入るような冷たさになり始めている。

「寒…いい加減、窓閉めるかね……」

 寒さに降参して立ち上がった時。

 ピンピロピロリーン♪

 ジャケットの内ポケットに入れたままの携帯電話が鳴り出す。

 俺は、それを手に取ると、電源を切った。

 一気に、血が冷える感覚。

「……あ〜あ、冷めちゃったじゃん」

 俺は、窓を閉めて、ついでにゲーム機の電源を落とすと、引っ越し屋が持ってきた布団をクリアボックスから抜き出して、
適当に被って寝た。

 昼間からゲームのやり過ぎで、目が疲れでもしていたのだろうか。

 眠気はすぐに訪れた。


 玄関の向こうで、階段を昇る足音が2度、聞こえた。

「……あと、九段」

 くぐもった女の声。
 最初の時より、玄関に近付いている。


                    *


 次の日の夕刻になって、いい加減腹が減った。

「……人間、元気だろうが落ち込んでいようが、とにかく腹は減るもんだな」

 実際、名言ではないか。
 何もせずに部屋に転がっているだけでも、やはり腹は減るらしい。
 そして、俺も、空腹で餓死したいと思えるほどの根性は無い。

 というわけで、コンビニで適当に弁当とパンをドカ買いした。

 その帰り道。


 俺は、両手にコンビニのビニール袋を提げ、街灯に照らされた道を歩いていた。
 やたらと薄暗い通りは人の目もなく、古いアニメの主題歌なんぞを歌いつつ、それなりに上機嫌で、微妙にスキップ気味に歩く。

「……〜オレがやめたら〜〜誰がやる〜〜♪」

 空腹のあまり、ちょっと危険なテンションになっている気がする。

「〜ダダンダン〜〜ダンダンダダ〜〜ン♪ ダダンダァァァァ〜ン♪」

 調子に乗って、ビニール袋をグルングルンと回転させつつ、うろ憶えに憶えている、アニメの主役ロボの必殺技のポーズを真似る。

 ガードレールの角が、回転するビニール袋にぶち当たる。

 ビニール袋を飛び出してふっとぶ弁当。

「ゲェーッ、弁当が空中を吹っ飛んで地面に叩きつけられたーッ!」

 言葉通りに、いい感じに弁当とかサンドイッチとかジュースとかが地面にバラ撒かれた。
 解説するくらいの余裕があるのは、テンションの高さとビニール袋の残り半分の弁当だけでも、空腹を満たすのに十分だったためである。

「あーあ……」

 しかし、ボケをかましても返事をする人間がいるわけでもない。
 俺は、そこはかとなく漂う虚しさにかられつつ、惨状と化した行動の一角に屈み込んで弁当のなれの果てを見下ろした。

「…どう見ても、これはレスキュー不可能だな……ん?」

 屈み込んだ視界に、妙なものが映る。
 ガードレールの、足の下側に、小さな蜘蛛が巣を張っていた。

「えらい、レアなところに巣を張ってる蜘蛛もいるもんだ」

 普段なら、絶対わざわざ見下ろさない場所だ。
 だからこそ、わざわざ人間が巣を千切ったりもしないんだろうが、いかんせん虫からしても同じらしく、
その巣には虫が一匹もかかっていなかった。

 巣の中央でじっと八本の足を伸ばしている蜘蛛も、どこかしら、痩せて見えた。

「頭の悪い蜘蛛ってのもいるのかねぇ」

 なんとなく、哀れな気がして、蜘蛛を見る。

「ああ、そうだ………」

 ふと、思いついて、すぐ近くにあった自動販売機へひた走る。
 予想通り、灯りに吸い寄せられた蛾が、ズラリと並べられた極彩色のジュースのディスプレイに、無数に貼り付いていた。
 その一匹を適当につまんで、もう一度ガードレール下に戻る。

「よしよし、ちゃんとまだいたな…」

 巣を傷つけないように、そっと、白い指で挟んだ小さな蛾を蜘蛛の巣へと置く。

「飯だぞ〜〜。……そーれ、喰え喰え」

 俺の言葉を理解したわけでもないだろうが、じっと動きを止めていた蜘蛛が、糸に絡まれた蛾へと迫っていく。
 小さな牙が、羽根を震わせてもがく蛾の、柔らかな腹部へと突き立った。

 ゆっくりと死んでいく蛾を見ながら、俺はまた、冷めていく自分に気付いている。

「………ついてなかったなぁ」

 皮肉な笑いが、自分の口元からこみ上げるのを、俺は感じていた。

 ビニール袋を拾い上げて、逃げるようにその場を立ち去る。


 玄関の向こうで、階段を昇る足音が3度、聞こえた。

「……あと、六段」

 くぐもった女の声。
 次第に、はっきりと聞き取れるようになってきた。


                    *


 翌日の、夕刻。

 昨日のガードレールの場所へと見に行くと、散らばった弁当に、無数の蟻が集っていた。
 蠢く黒い固まりは、陽の光の下で見ると、いつもより余計に気色悪く感じる。

 それでも、踏みつぶさないように気を付けて、ガードレール下を見下ろすと、蜘蛛の巣には、もう主の姿はなかった。
 乾涸らびた蛾の死体だけが、蜘蛛の巣の端にかかったままフラフラと揺れている。

「………引っ越したか…………死んじまったかな」

 蜘蛛の巣の下に、死骸でも落ちていないかと地面を見下ろす。
 蟻が、運んでいったのかも知れない……だとしたら、まさに食物連鎖ってヤツか。

「…木下先輩。こんなところで、何してるんですか…?」

 不意に、背後から呼びかける声があって、俺は顔を上げた。

「……死骸を探してるんだよ。まだ、その辺に落ちてるかも知れないと思ってな」

「木下先輩……」

 振り返ると、背の低い、純朴そうな娘が、泣きそうな顔で俺を見ている。
 大学で後輩だった、花山桃子。

「…………春美のことは、悲しいけど…どうしようもない、事故だったんです。先輩の、責任とかじゃないです…」

 事故だった。自分の責任じゃない。
 何度も聞かされたセリフだ。
 親や友人、教師に、そしてこの子まで。誰もが同じ事を言う。

「分かってる。俺が探してるのは、ここで巣を張ってた蜘蛛の死骸さ」

 笑って、肩をすくめる。

「自分の、彼女の、死体じゃないよ」

 さぞかし、虚しい笑い顔なのだろう。
 目の前にいる、可愛い後輩の顔がますます泣きそうになる。

「……どうして、そんな事ばっかり……………」

 本当に、何を言えばいいか分からないのだろう。
 だからこそ、見ていてキツい。

「悪い、ほっといてくれ」

 片手を垂直に立てて『ごめん』のポーズをつけて、俺はその場を離れた。
 これ以上付き合ってると、本当に彼女を虐めてしまいそうだった。

 いつの間にか、日は傾き始めていて、西日が背中に痛い。
 何かに追われるように、俺はまた一人、アパートの部屋へと戻った。

 扉を叩き付けるように閉じて、靴を脱ぎ散らかす。

 そのまま、シーツを頭から被って夜が来るのを待った。


 玄関の向こうで、階段を昇る足音が2度、聞こえた。

「……あと、四段」

 くぐもった女の声。
 その声は、俺がわずかに期待していた声に似ていた。


                    *


 交差点に、俺は立っていた。

「亮〜〜!」

 ずっと久しぶりに聞く気がする、自分の名前。
 車道を挟んで、向かい側に立った春美が、手を振って俺の名を呼んでいる。

 時刻は真昼。

 白く照りつける日差しが目を灼き、俺はまっすぐに春美を見ることが出来ない。
 手で目の上を覆いながら、なんとか春美の姿を見ようと努力する。

 だけど、どうしても俺は、春美の姿をハッキリと見ることが出来ない。

 ぼやけた春美は、手を振りながら車道へと足を踏み入れ、こちらへと近付いてくる。
 車道を狂ったように車が行き交い、けたたましいクラクションを鳴らす。

「馬鹿、来るな! こっちに、来ちゃダメだ!」

 俺は、必死に手を振って、春美を下がらせようとする。
 ひどく空気が重くて、振り回そうとする手がまるでうまく動かない。

「プッ…あははははっ! なにやってんのよ、亮」

 俺の様子を、楽しげに笑いながら、春美の声は近付く。
 けたたましいクラクションが鳴り響き、俺の心臓は狂ったように高鳴る。

「やめろ、やめてくれ! ダメなんだよ! お願いだから!」

 俺の哀願は、春美の耳には届かない。


 狂ったようなブレーキ音と、重いものが弾き飛ばされるにぶい音。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 俺の口から、絶叫が上がった。
 両手で必死に目を塞いで、俺は視界の中に入ろうとする光景を隠そうとする。

 ただ、肌が引きつるような春美の悲鳴が、耳から入り込んできた。
 その悲鳴はいつまでも消えず、俺の背に貼り付いて。

 ……………そして、俺は目を覚ます。



 窓からは、陽の光が覗いているというのに、部屋の中はひどく冷たかった。

 そして、毛布にくるまった俺の背には冷や汗がビッシリと貼り付いている。
 ぬるりとした感触が、まるで血のように思えて、俺は背をぬぐった手の平に貼り付いたその汗を、まじまじと見てしまう。

「………畜生」

 もう、彼女だった春美が交通事故で死んで、一月になる。
 最初の一週間、繰り替えし見続けていた夢だった。

 現実には、俺は交通事故の光景を見ていないし、春美の死体を確認もしていない。

 ただ、春美は、デートの待ち合わせに来る途中、死んだ。
 デートに誘ったのは俺で、時間を指定をしたのも、俺だった。

 もしかしたら、いや、確実に、俺がデートにさえ誘わなければ、春美は死ななかった。

 だとしたら、春美の死の責任を、俺は取るべきではないのか。

 そんなことが出来ないと分かっていても、俺は、何もしないでいることは出来なかった。
 だから、俺はその話を思い出した時、迷わず今までの住処を捨てた。
 死んだ人間が訪ねて来るという、呪われた部屋。

「……あと少しだ。……あと、少し」

 俺は口の中で呟き、もう一度毛布を頭から被る。

 起きていたくない。
 夢は恐ろしかったが、何事かを考えているのが嫌だった。
 望みはすぐに叶えられて、俺の意識は再び浅い眠りの中へと落ちていく。


 玄関の向こうで、階段を昇る足音が3度、聞こえた。

「……………あと、一段」

 女の声。
 春美の声に、間違いない。

 もうすぐ、彼女がこの部屋へ来てくれる。


                    *


 最後の一日。

 俺は、じっと玄関を見たまま、外に出ることもせずに夜を待った。

 空腹も感じない。
 ただ、渇いた喉だけがひどく痛むのを感じる。

 やがて、陽が落ちて、夜が深さを増していく。
 玄関の、扉の向こうにある“なにか”の気配が増していく。
 扉の中央の小さな覗き穴から、こちらを眺め見る視線を感じるような気がした。

 外から聞こえる、車の走る音や、犬の鳴き声。
 それらは、いつしか静寂に消えて行き、押し潰されるような静寂だけが最後に残った。

 時間が、取り返しの付かないほどに過ぎていく。

 いつしか、肌が引きつるような感触が、俺の背中を覆っていた。
 一瞬でも、この場にいたくない。

 俺の頭の隅に、そんな感情が浮かんだとき。
 部屋の灯りが、明滅を始めた。

「……………ぅ」

 悲鳴を上げそうになったが、渇いた喉からは何の言葉も出ない。

 灯りが消えて、部屋が暗闇に包まれる。
 窓から入り込む、外に立てられた古い街灯の灯りだけが、かろうじて部屋の様子を俺の目に映す。
 まだ、部屋の中には俺一人しかいない。

 どんっ どんっ どんっ

 玄関が、外から叩かれる。
 重いものでも扉にぶつけているような、ひどく高い音が響くたび、俺は背中が震えるのを感じた。

 どんっ どんっ どんっ どんっ

 軋む扉が、今にもへし折れんばんかりにギチギチと音を立てていた。

 どんっ どんっ

 俺は、立ち上がった姿勢のまま凍り付いて、扉を見ることしかできない。
 扉を開けに行くことも、視線を離すことも出来ない。

 唐突に、音は止んだ。

 そして、ガチャリと、鍵の開く音が聞こえた。

「……なんだよ、それ…」

 ほとんど無意識に、俺は呟く。
 俺は、部屋に迎え入れてない。

 だが、俺が見ている前で、玄関の扉がゆっくりと開き始める。
 鉄の軋む音が、部屋に響く。


 扉の向こうから、部屋へと訪れたのは、春美だった。


 暗闇の中で、笑っている。
 それを見ただけで、人の顔ではないと分かる。
 形が同じというだけで、違うものなのだと、俺は確信してしまった。

 春美が、ゆっくりと俺に近付く。

 俺は、凍り付いたようにその場から動くことができない。
 その顔から、目を離すことができない。

 春美の手が、俺の首に触れる。

 ゆっくりと、両の手で締められていく喉から、ぞっとするような冷たさが伝わってくる。

「……なん……で」

 問いかけに、春美は答えない。

 だが、俺を見ている春美の、その笑ったままの顔を見て、俺はなんとなく悟った。

 死者は、生者が憎いのだ。

 生きている人間が、どんなに思ったりしても、そんなことは関係ない。
 ただ、生きているというだけで、決定的に違う。

 笑ったまま俺の首を絞める春美は、もう春美じゃない。
 死者は、生者を理解しない。

 頭が内側から溶かされるような感覚に、次第に意識が混濁としていく。

 だが、不意に、喉を掴んでいた手が離れて、俺は床に投げ出された。
 止まっていた血の流れが戻って、頭の中をドクンドクンと血が脈動する感触と共に、俺は激しい頭痛に襲われる。

 耐えがたい吐き気をこらえながら、俺は必死で春美の姿を見上げる。

 そこには、首を両の手で押さえながら、苦しげな表情を浮かべた春美の姿だった。
 苦悶の表情にはまるで老人のような深い皺が刻み込まれ、開いた口からは青黒い舌が苦しげにのたうっている。

 その首に、微かに、細い糸が見える。

 扉の向こうから延びた一本の糸が、春美の首に巻き付いて、扉の外へとゆっくりとその体を引きずっていく。

 やがて、春美の姿が扉の向こうに消えて、叩き付けるような勢いで扉が閉まる。
 消えていた部屋の灯りが明滅しながら、再び点る。

 それきり、何も起こらなかった。

 それでも俺は、その場に座り込んだまま、ぼんやりと玄関を見続けていた。

 …………糸は、蜘蛛の糸だった。


                    *


 翌日。

 俺は、コンビニで買ってきた求人雑誌を手に、部屋に戻る途中、例のガードレールの場所で、足を止めた。

 あの時に地面に落とした弁当はすでに片付けられていて、路上にはもう這い集っていた蟻の姿はない。
 屈み込んでガードレールの下を見ると、あの蜘蛛の巣は、主のいないまま、まだ張られるままにされていた。

「………ありがとな」

 一度だけ、蜘蛛の巣に礼を言って、立ち上がる。
 そして、俺は、アパートの部屋へと帰る道を歩き始めた。

 もう足音が聞こえてない、俺の暮らす部屋に。



終わり


あとがき
どうもはじめまして。
ロクに文章を書いたこともないのに無謀にも参加させていただいた、スイカの名産地と申します。

ホラーっつーと怪談。そして怪談だけに階段の話です。
しかし、書いてみるとなんだかやたらと分かりにくいだけの話になってしまった気も。
ちゃんと読んで下さった方、どうもありがとうございました。

なんとか気合でレベルアップを図りつつ地道に投稿を続けていきたいと思っているので、これからもよろしくお願いします。